10 S-Yairi 000-Custom

S-Yairi 000-Custom 1978~

 小さい頃から工作やプラモデルなど、ものづくりは大好きであった。そしてアコースティックギターにのめり込みすぎて、高校生の半ばを過ぎたころ、ついに思いは頂点に達し、ギターそのものを作る職人になりたくなっていた。演奏だけでなく、アコースティックギター本体そのものを自分で作りたくなったのである。

 しかし、当時は今のようにギタークラフト専門学校などなく、クラシックギターの工房は少しあったが、個人でアコギを作るルシアーも日本には皆無で、メーカーの工房に就職するしかなかった。高校3年だった1977年秋、S-Yairiの工房で働きたくて親に内緒でS-Yairi本社へ手紙を出し、一人でこっそり名古屋まで出かけて行った。社長である矢入貞夫氏と面接し、どれほどギターが好きでS-Yairiを愛しているか話した。(ギター内へのサインは貞雄となっているが本名は貞夫らしい)

 矢入氏は「非常に嬉しいし私も君のような情熱を持った若者にうちに来てもらいたいが、ご両親に話していないというのが最大の問題だね、まずは両親の承諾を得てからにしましょう。」と言ってくださった。当然と言えば当然の結果だが、私としては親父から猛反対されるのは分かっていたので両親に話す前に会社のあたりをさぐり、ダメそうだったらそのまま両親には言わずにおこうと思っていたと思う。

 帰って両親にいきなり話すと予想通り猛反対され大喧嘩になった。弁のたつ私を親父は自分ひとりでは説得できないとふんだのか、後日、親戚の叔父や叔母が集結し私を取り囲んで大裁判となった。分かり切った大学へ行く重要性を延々と説かれ、最終的には大学を卒業してからならどこへでも行ってよいという結論になった。

 77年12月、矢入氏にお詫びを言いに再び名古屋へ一人で行った。矢入氏は「良い結論だと思う、大学を卒業して、それでもうちに来たかったらいつでも言ってきなさい。ただし、職人の現実はいろんな意味で君が今思っているよりもっと厳しいよ。」とおっしゃった。その後ギターや音楽に関する話になり、私が今の2本のS-Yairi(アコギとクラギ)を手に入れるまでのいきさつ、中学で日本のフォークソング、高校1年でポール・サイモンに傾倒し、高校3年からラグタイムギターに熱中しステファン・グロスマンの教則LPで毎日練習していること。中学生のときはドレッドノートボディに憧れていたが、今ではフィンガーピッキングにハマり、レスポンスと中高音やハイポジションでのバランスに優れたフィンガーピッキング用の000スモールボディの良いアコギが欲しいこと。それに向けお金を貯めているが、今の日本で000は入門ギターの位置づけであり、音質重視のオール単板仕様の000タイプは国産メーカーにはほとんどないこと。Martinは予算的にも無理だし学生が持つべきでないと思っていること。最近発売になった、S-Yairi唯一の000ボディのモデルYF-201を試奏したことはあるが、S-Yairiのギターの中では最下位モデルであり、音もYD-304の方が優っていたため失礼だが候補に入っていないこと等を延々と正直に話した。

 矢入氏はニコニコしながら私の長い話を聞いてくださった。そして突然、「チョット弾いてみて。」と部屋にあったケースを開けてギターを私に渡した。私のと同じモデルのYD-304だった。2~3曲ほどさわりを弾くと、「ほう、思っていたより上手だね…」と褒めてくれ「では君の今の理想のギターの仕様は?」と聞かれ、私は「000ボディ、ショートスケール、トップはスプルース単板でサイドバックはインディアンローズウッド単板、マホガ二ーネックで指板とブリッジはエボニー、ナット幅はやや広めで、ペグはシャーラークローム、貝などの飾りは不要で、音はバランスとレスポンスを重視して…」と思いつくままの理想を並べていった。「で、資金は今いくらくらい貯まっているんだね?」と聞かれ、NASHVILLEは友人に売ることが決まっており、それに貯金と来年のお年玉を加え…と頭で計算し「10万円ちょっとくらいにはなると思います。」というと、矢入氏の口から予想すらできなかった驚くべき言葉が発せられた。

 「君とギターの話をするのは本当に楽しい。君のギターに対する情熱は作る側としては本当にうれしい。今回のことも何かの縁だ。その値段でうちにある最高の材を使って君の理想のギターを作ってあげよう。半年待てるかね?」とのことであった。

 何と、今でいうカスタムオーダー(当時は特注品と言っていた)である。高校生だった私が知らなかっただけかもしれないが、おそらく当時はプロでもない一般個人がそうやって仕様や材質を指定して(クラギではなく)アコギをメーカーに発注すること自体がほとんどない時代であったと思う。作ってもらえるということの意味が一瞬理解できなかったほどである。その後は夢見心地だったのか良く覚えていないが、工場長らしき別の担当の方とネック幅などのさらに具体的な細かい打合せをし、その方にも私のプレイスタイルなどを見てもらってから神戸に帰ったと思う。

 そして待ちに待った半年後の1978年5月、完成したとの連絡があった。販売は契約店からということだったのでロッコーマンに取りに行った。ケースを開けるとそこには矢入氏が言ったとおりの最高の材で丁寧に作られた国産最高レベルの000カスタムがあった。ロッコーマンの店員Oさんも弾きながら「これが10万円とは信じられへん、音も材質も作りもオール単板の国産最高価格帯(20万円以上)レベルや。」と驚いていた。その日からこのギターは私のフィンガーピッキングのメインギターとなり、40年以上たった今もネック・ボディなど何の不具合もなく我が家にある。最も私の手になじんだ、絶対に手放すことのない私の「一生物のギター」である。

 残念ながら、それから4年後の1982年、フォークブームの終焉とともにS-Yairiは倒産してしまう、私がS-Yairiのギター職人になることはなかった。

 2003年ピエゾピックアップを装着した。その後2014年9月にデュアルピックアップのL.R.BAGGS Anthem SLに装着しなおした。エレアコとしてライブなどで活躍していたが、購入後40年以上経過し、ブリッジが浮き気味になりフレットの減りも限界になったので2018年7月にピックアップAnthem SLをレッスン用ギターのHISTORY NT-S4に移した。その後現役を引退し、弦を取り除いた状態のままケースの中で静かに眠りについていたが、生徒さん用貸し出しギターとして復活している。